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『ベティ・ブルー 』の舞台グリュイッサン

バルセロナからバスで3時間50分、

国境を超え、フランスのナルボンヌへ。

映画の舞台を訪れることが旅のテーマのひとつ、
 
というのは以前書いたけれど、

その中でもっとも行きたかった場所が

この『ベテイ・ブルー』。

好きな映画について話す時に、

この10年まっさきに挙げてきた映画。

好きな、というより、えぐられすぎて、

忘れようにも忘れられない映画。

初めて観た時は、えぐられたところに、

監督の思惑から、

俳優の美しさから、

青や黄色の風景から、

音楽から、セリフから、

あらゆるものがどっと入り込んできて、

1ヵ月くらいそれは大変な思いをした。



当然、出発する前から調べもしていたし、

フランス人に会うたびに尋ねたりもしていた。

ひとくちに舞台、といっても、

3時間の映画の中ではさまざまな場面がある。

ベテイの登場が強烈なバンガローのシーン。

ベティとゾルグが生活を始めたパリのアパート。

二人がピアノを売って生活をする町。

丘の上でケーキを持って立つ黄色い丘。

できれば全部行きたかったし、

特に、バンガローと丘の場所は突き止めたかった。

丘の場所は見つけ出せず心残りだけれど、

バンガローの場所はわかった。

ナルボンヌからバスで30分ほどの

グリュイッサンという小さい浜辺の町。

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こんな感じ?あんな感じ?と

おぼろに記憶に残っているイメージに近い場所を探す。

当然だけど、雰囲気は随分違う。

バンガローとバンガローの間が近い。

密集している。

あんな感じにぽつん、と立っているバンガローはないな。

現実と映画という違いと、

撮られたのが1980年代というのと。

思い入れで強調された記憶の場所を

外界で探す、というのがそもそも無謀。

だけど、身を置いているというだけで、楽しい。

楽しい、うん。


ぶらぶらしていると住人の女性に英語で話しかけられた。

映画の場所を訪ねて来たというと、

うんうんというようにうなづき「ジャパニーズ?」と。

昔はもう少し、私と同じように訪れた日本人がいたみたい。

映画で出てきたような全部木でできたバンガローのこと

「シャレー」というのだと教えてくれた。

撮影されたバンガローは今はないって。

うん知ってる(笑)。

そもそも映画の中でも燃えてしまってるしね。

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周辺の雰囲気は、

ごみごみしてないビーチリゾートという感じ。

外国人観光客らしき人はあまり見当たらず、

地元あるいはバカンスで訪れている感じの人々が

浜辺に寝そべったり、

ビーチバレーやペタングに興じたり、

バンガローの前でバーベキューをしたりしていた。

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ナルボンヌからの行き方。

CitibusのP1(gruissan-plage行き)に乗り30分。










ところで、今、更新する前に「グリュイッサン」で
検索してみたところ、こういうブログを発見。

http://ameblo.jp/hiro95/entry-10598332741.html

この方も同じようにロケ地巡りをされているのですが、すごい!
バンガローの正確な場所も、パリで住んでいた場所も、
ピアノを売って生活してた場所も、全部訪問されてる。
この映画だけでなく、場面との対比とか、掘り下げてるなあ。。
あ”ーーー私ってつくづく・・・・・・甘い・・・| ̄|○


ま、えーか。


それから、下に、12年前初めて見た時の感想をこっそり載せておきます。
実は昨日久しぶりに見てみて、今とは違っている部分もあり迷ったのだけれど。
それでも大事な映画であることは変わりないので。
読みたい方は、<だってヒマなんだもん>をクリックしてお読みください。




BGM:Gabriel Yared "C'est Le Vent,Betty"




『ベティ・ブルー完全版』 原題:37°2 le matin

 久しぶりに、脱け出すのが容易でない映画を見た。今もまだラストシーンが頭から離れないでいる。目をひく衝撃的なラストというわけではなくて、むしろ穏やかで、だからこそそこに至るまでのすべてを思い出してしまう、映画全体の空気がそのカットに集約されている、そういう感じ。
 インテグラル版しかみていないので、オリジナルの配分がどうだったのかはわからないけれど、思っていたような性的にインテグラル(ってなんだよおい)な映画ではなかった。なぜそう思い込んでいたのか今となってはナゾだけど、あれは生の中の性だ。もっと描写が激しくてもそう思っただろう。考えてみれば映画の中の性なんて、どんなに激しかろうと踏み外していようと、生の中の性以上(以外?)のものなどそう多くはないかもしれない。
 生の中の、ということでいえば、「書く」こともこの映画の中では重要なファクターになっている。作家志望!という力の入ったものではなく、生きることの中にあたりまえのように「書くこと」が組みこまれていていたにすぎないひとりの男。男の才能を信じて、或いはすがって、作家というベクトルに向かわせる女。何もかもが強烈で、強烈ゆえに破滅に向かう女を、どこまでも包み込もうとしながら、包みきれなかった男。映画や小説の中では「書く」側の人間がエキセントリックになりがちなのに、この映画の中では圧倒的に相手側なのだ。「書く」ほうはどこまでも女を愛し見捨てない役目。そこになんとなく座りの悪い思いをするというか、一筋縄じゃいかない、だからこそひきつけられる。ふたりが別々の人間でなかったらよかったのに、というわけのわからない感傷。
 書くこと。セックス。仕事。笑い。絶望。新しい命。死。狂気。ちょっと乱暴なくくりかもしれないけれど全部、生の一部だ。どんなにはみだそうと。はみだす部分をそれぞれの配分で隠し持ちながら、大部分がはみださないで生きている。だからこそはみだした者の物語に強く心を揺さぶられてしまうのかもしれない。
 といいつつ、あの狂気に心当たりがあるなどといったら、危険な告白だと思われるだろうか。

 全然話は変わるけれど、小谷美紗子の曲に「The Stone」という曲がある。彼女がどれだけ知名度がある人なのかは知らないけれど、私はひそかに好きでよく聞いていた。 あのピアノの伴奏。あの歌詞。曲全体に漂うムード。
 もしかして彼女はこの映画に触発されて書いたんじゃないだろうか。なんて、多分私の思い込みだと思うけれど。でもよく似ているんだもの。
 あの曲の空気も青かった。明け方の夢みたいに。


 実をいうと今もまだ脱け出せないでいる。年末のこの忙しい時期に、いつまでもこんな気配でいるのは自分でもどうかと思うけどどうしようもない。結局あのあと劇場版を二度見、サントラまで買ってしまった。メリーゴーラウンドのメロデイ。そしてあの、ピアノの。
 劇場版は2時間と短いだけあって、狂気まで劇的に移り変わっていく感があった。でも私は、最初にみてしまったせいもあると思うけど、完全版の方が好きだ。 3時間もあるし、エピソードが幾つもあって間延びしてみえるかもしれないけれど、全部必要に思える。なぜならあれらのエピソードによって、ベティが少しずつ心を失っていく様子が際立つから。最後の言葉が際立つから。セリフの訳も断然完全版の方が好きだった。
 この映画は恋愛物というより、喪失の物語だ。 始まりと終りの色彩の違い。始まりは陽気で、ベティは強烈で、ゾルグはいかにも軽薄そうで、食べているのはチリで、それなのにおしまいにはあれだけ強烈に光を放っていたベティがいない。色彩は青く、冷えて、なのにどこかユーモアも残されているような。あんなにも強烈に存在していたものが今はいない。確かにそばにあったのに、今はない。 強烈な喪失感。少し熱にうかされたような。ひとりが残っていることによって不在がきわだつ。もしこの映画の結末が心中だったら、ここまで揺さぶられることはなかっただろう。
 今となってはもう、自分が何にこんなに心を揺さぶられたのか、ベティなのかゾルグなのかジャン・ユーグ・アングラードなのかそれとも監督なのか、音楽なのか、太陽の光線なのか、明けていく空なのか、部屋の陰影なのか、さっぱりわからなくなっていて、それでもただ恋のように苦しくて、各場面の色彩を思うだけで胸がつまって泣きそうになる。実際何度も泣きじゃくってしまって、ほんとにもう・・・なんだかねえ・・・。
by planet_somnium | 2011-07-22 18:14 | 映画舞台